東京高等裁判所 昭和63年(行ケ)169号 判決
一 請求の原因一ないし三の事実(特許庁における手続の経緯、本願発明の特許請求の範囲の記載及び審決の理由の要点)については、当事者間に争いがない。
二 取消事由に対する判断
1 右争いのない本願発明の特許請求の範囲の記載に、成立に争いのない甲第二号証の一(昭和五四年六月一三日付特許願書添付の明細書及び図面)、同号証の二(昭和五八年一一月九日付手続補正書)、同号証の三(昭和六三年五月七日付手続補正書)並びに甲第八号証(社団法人日本河川協会昭和五三年三月発行「ゴム引布製起伏堰技術基準・一次案」)を総合すると、本願発明は、河川を横断して可撓性膜布を上流側と下流側で河床部に固定して包被を形成し、包被内部に流体を注入して膨脹起立させ、あるいは包被内部から流体を排出して収縮倒伏させることができるようにした可撓性膜製起伏堰の改良に係る発明であるが、本願発明の目的、構成及び効果は、次のようなものと認められる。
すなわち、
<1>従来の可撓性膜製起伏堰(以下「従来の起伏堰」ということがある。)は、本願明細書添付の第1図(a)(b)に示されたように、上流側水位が計画倒伏水位(堰自体の破壊や洪水発生の危険を考慮して越流水深の値がいくらになつたら堰を倒伏させるかを予め決めた場合のその越流水深プラス堰高)で、下流側水位がゼロであつて、下流側の河床部との接点(B)における膜布の立ち上り角度がゼロであるという条件の下で設計されていたが、このような条件の下で設計された従来の起伏堰においては、膜布の周囲長と接地点(AB)間の長さ(X1)との比は約一〇対二となり(上下流側水位なしの場合の膜布の立ち上り角度は約三〇度となる。)、膜布の周囲長と接地点(AB)間の長さの比がこのような割合の包被は、堰が倒伏した時、下流側接点(B)からの倒伏幅(Y1)は、堰高の約一・五倍となること、この結果、土砂流の多い現場では、洪水時に包被から排水又は排気しても第1図(b)にみられるような倒伏状態にはならず、第3図に示されたように、膜布が堆積土砂を広く覆い、その下の堆積土砂がフラツシユされずらくなるので、洪水時に河川の断面積が十分に生かせず、流れを阻害するという問題点があつたこと(なお、前掲甲第八号証によれば、本出願前に刊行された「ゴム引布製起伏堰技術基準・一次案」は、ゴム引布製起伏堰に関する「従来の設計、施工、管理の技術経験を体系的に整理し、さらに大型化、用途拡大のための新たな研究成果をとり入れた技術基準」(はしがき)であることが認められるから、そこに例示された事項は、少なくとも、昭和五三年当時、一般的な事項とされていたことと認められるので、そこに張力・越流水深相関図(図2・2・5)について「図2・2・5は、下流側水位をゼロとし、袋体ゴム引布の下流端接触角を180°として求めた。」と記載されていることは、本願明細書における「(従来の起伏堰は)上流側水位が計画倒伏水位で、下流側水位がゼロであつて、下流側の河床部との接点(B)における膜布の立ち上り角度がゼロ(下流端接触角を180°とすること)であるという条件の下で設計され」ていたとする記載を十分裏付けるものであり、このような条件を設定しての設計が本出願当時普通に用いられていた常識的な手法であつたことが認められるから、原告の主張するような条件の設定が、本出願当時の起伏堰の設計に当たつての一般的な手法であつたとは認められないとする被告の主張は採用できない。)、
<2>従来の起伏堰が、右のとおり上流側水位が計画倒伏水位で、下流側水位がゼロであつて、下流側の河床部との接点(B)における膜布の立ち上り角度がゼロであるという条件の下で設計されていたのは、ゴム引布製起伏堰の膜の張力及び形状の設計においては、右の条件を設定することが、膜張力を計算する上で最も条件的に厳しいことによるものであること(なお、計画倒伏水位とは、前記のように堰自体の破壊や洪水発生の危険を考慮して越流水深の値がいくらになつたら堰を倒伏させるかを予め決めた場合のその越流水深プラス堰高のことであるから、右の条件設定が最も厳しいとはいえないとする被告の主張は失当である。)、
<3>また、堰高(H)と上下流側の水位の条件を特定し、内圧として通常の値(内圧(S)は、通常堰高(H)との比(S/H)が一・〇~三・〇の範囲内になるように定められる。)をとるときに、膜布の河床部との接点における立ち上り角度(上流側水位が計画倒伏水位で、下流側水位がゼロである場合は、下流側の立ち上り角度)が決まれば、膜布の各部位の曲率半径と膜張力も決定できることから、袋体の形状は一義的に決まるものであり、したがつて、膜周囲長さと接点間距離との比率も決まるものであつて、同じ条件のもとにおいては、逆に、膜周囲長さと接点間距離との比率が決まれば、膜布の河床部との接点における立ち上り角度も決まるという関係にあることは、別紙3の説明のとおりであり、立ち上り角度が大きければ、接点間距離は長くなり、それに応じて包被の倒伏時の倒伏幅は短くなること、
<4>本願発明は、前記<2><3>で認定したような技術的事項を前提にしたうえ、右の最も厳しい条件の下で、膜布の立ち上り角度をゼロとして設計していた従来の起伏堰の設計の手法を改善して、計画倒伏水位に達した場合(Bの構成)と上下流水位がない場合(Cの構成)との二つの条件を設定し、これらの条件下における立ち上り角度を規定することによつて、可撓性膜製起伏堰の袋体の形状、すなわち、膜周囲長さと接点間距離の比率を規定したものであること
<5>本願発明は、前記<2><3>で認定したような技術的事項を前提としたうえ、右のような従来の設計手法で設計されていた従来の起伏堰がもつ<1>で述べたような問題点を解消すべく特許請求の範囲に記載したとおりの構成を採用したものであるが、本願発明の構成のうち、特に、「可撓性膜布の下流側の河床部との接点に於いて上流水位が計画倒伏水位に達した時においても膨脹させた膜布に立ち上り角度をもたせた」構成(Bの構成)(従来は、上流側水位が計画倒伏水位で、下流側水位がゼロであつて、下流側の河床部との接点(B)における膜布の立ち上り角度がゼロであるという条件の下で設計することが設計上の常識であつたことからして、「上流水位が計画倒伏水位に達した時においても」という記載は、上流水位が計画倒伏水位に達し、下流側水位がゼロという上下流側水位の状態をいうことは容易に理解でき、かつ、この場合の立ち上り角度をゼロではなく、角度βをもたせることにしたのである。)と「上下流水位がない場合、上下流の膜と基礎との接点における膜布の立上角度を60°~150°となるようにした」構成(Cの構成)とした点に特徴があること
<6>本願発明は、B、Cの構成を採用することによつて可撓性膜製起伏堰の膜周囲長さと接点間距離の比率を二つの設定条件の面から規定したものであり、Bの構成として計画倒伏水位に達したときにも、立ち上り角度をもたせたことによつて、X1(従来の起伏堰の接点間距離)、<X2(本願発明の接点間距離)、Y1(従来の起伏堰の包被の倒伏時における倒伏幅)>Y2(本願発明の包被の倒伏時における倒伏幅)の関係(別紙1の第1図(b)及び第2図(b)との対比)を保証し(特許願書添付の明細書四頁七行ないし九行)、また、Cの構成として、上下流水位なしの場合下流側接点(B)における膜布の立上り角度(β)を約六〇度~一五〇度とすることによつて、倒伏時には、下流側接点(B)からの倒伏幅(Y2)が少なくとも包被の膨脹起立時(堰高)の高さより小さくしたこと(立上り角度(β)が六〇度のとき倒伏幅(Y2)は堰高の〇・八二倍、立上り角度(β)が一五〇度のとき倒伏幅(Y2)は堰高の〇・一八倍)、このように、本願発明は、Bの構成により従来の起伏堰より包被の倒伏時における倒伏幅を短くし、Cの構成により右倒伏幅を堰高より短くすることによつて、第4図に示すように「下流に堆砂があつても上流が倒伏水位に達すると倒伏した堰膜上を水が流れ下流の推砂がフラツシユされやすくなり、河川流れを阻害しない。」(昭和六三年五月七日付手続補正書二頁二〇行ないし三頁二行)という効果を奏すること、
2 右のとおり本願発明は、B及びCの構成として直接には立ち上り角度を規定しているものの、その技術的意義は、起伏堰の膜周囲長さと接点間距離の比率を従来の起伏堰における接点間距離の膜周囲長さに対する比率より大きく定めることにより包被の倒伏時における倒伏幅を短くし、堆積土砂に対するフラツシユ効果を大きくした点にあるものといえる。被告は、本願発明における立ち上り角度に、そのような技術的意義があることが認められないと主張するが、従来、起伏堰の設計に当たつては、設計の一般的な手法として原告の主張するような条件が設定されていたこと及び堰高と上下流側の水位の条件を特定し、内圧として通常の値をとるときに、膜布の河床部との接点における立ち上り角度を規定することによつて、膜布の各部位の曲率半径と膜張力も決定できることから、袋体の形状が特定され、これによつて膜布の周囲長と接点間の長さとの比が決まり、立ち上り角度を大きくすれば接点間距離は長くなり、それに応じて包被の倒伏時における倒伏幅は短くなるものと認められることは前記説示のとおりであるから、本願発明における立ち上り角度の意義の理解に当たつて、これらの事項を考慮の前提としない被告の右の主張には合理的な理由があるとは認められない。そして、本願発明のBの構成においては、「膜布に立ち上り角度をもたせた」と規定されているだけで、立ち上り角度が特定されたものとはなつていないが、Cの構成からの限定も加わり、立ち上り角度がゼロにならないものと定められているから、Bの構成は立ち上り角度をゼロとした従来の起伏堰に比し包被の倒伏時における倒伏幅が短くなることを示しており、また、Bの構成において設定された条件下での包被の形状も特定されたものとなるものと解される。なお、堰高と内圧を決め、上下流側水位の条件を設定すると、膜布の各部位の曲率半径と膜張力も決定され、それらの事項は特定されたことになり、膜布の河床部との接点における立ち上り角度をもつて、その特定の条件下における袋体の形状を規定することができるのであるから設定された特定の条件下における袋体の形状を定めるためには、被告のように内圧の変化を考える必要はないものというべきである。
3 成立に争いのない甲第三号証(引用例)によれば、引用例記載の浮きドラム式起伏ゲートは、ポンプ、コンプレツサーを使用することなく取水、放水両バルブの操作によつて起立高を調節し得る簡易ゲートを提供することを目的とし、河川を横切るようにドラム格納ピツトを形成し、それを被覆するようにゲート主体を河床部に固定し、ドラム格納ピツトとゲート主体の内部に空気ドラムを格納し、水を注入して空気ドラムを上昇させることによつてゲート主体を膨脹起立させ、内部から水を排出してゲート主体を収納倒伏させることができるようにした起伏ゲートであることが認められるところ、引用例の第1図によれば、引用例記載の起伏ゲートにおいても、ゲート主体を膨脹起立させて上流側水位がゲート主体の頂部付近に達し、下流側水位がゼロの場合に、ゲート主体と基礎との接点におけるゲート主体に、立ち上り角度をもたせたごとくみられるが、引用例記載の起伏ゲートは、河川の水自体を利用し、バルブの操作によつて、取水しあるいは放水することによつて起立高を調節しようとするものであることから、上下流側水位ゼロの場合における立ち上り角度は全く想定されていないことは明らかである。加えて、前掲甲第三号証によれば、引用例には、第1図の「ゲート主体に立ち上り角度をもたせたごとくみられる構成」についての作用効果に言及した記載が全くないことが認められる。
4 右のとおり引用例記載の起伏ゲートは、ゲート主体の内部に空気ドラムを格納し、河川の水を注入して空気ドラムを上昇させることによつてゲート主体を膨脹起立させ、内部から水を排出してゲート主体を収納倒伏させることができるようにしたものであるから、引用例には、本願発明におけるように可撓性膜布のみからなる可撓性膜製起伏堰において、立ち上り角度を規定することによつて起伏堰の膜周囲長さと接点間距離の比率を特定の範囲に定めるという技術的思想がないことは明らかである。したがつて、上下流側水位ゼロの場合における立ち上り角度については勿論(前記認定のとおり引用例記載の起伏ゲートにおいては、そのような水位条件を設定することが全く想定されていない。この点において、審決が、「上下流水位がない場合に立上角度が60°~150°の範囲内となるようにしてあることは明らかである。」とした認定は誤りである。)、第1図の「ゲート主体に立ち上り角度をもたせたごとくみられる構成」についても、そこにみられる立ち上り角度が、本願発明の立ち上り角度のもつ技術的意義を有するものとは到底認められない。そうすると、本願発明における立ち上り角度のもつ前記認定説示したとおりの技術的意義を引用例記載の起伏ゲートに求めることはできないものといわざるを得ない。したがつて、本願発明と引用例記載の起伏ゲートとにおける「立ち上り角度」の技術的意義に差異はないとする被告の主張は採用できない。なお、被告は、作用効果に関して引用例記載の起伏ゲートの従来例と本願発明の前提とした従来例とは同じであり、引用例は、本願発明の実施例に類似している断面形状をもつ第1図の構成を開示しているのであるから、本願発明の作用効果と引用例記載の起伏ゲートのそれとは共通するものである旨主張するが、両者の従来例が同じものであることを認め得る証拠はないばかりか、前記認定説示のとおり、少なくとも立ち上り角度という重要な構成において共通したものとは認められないから、引用例記載の起伏ゲートが本願発明の作用効果を奏するものとは認められないので、この点の被告の主張も失当である。そうすると、審決は、本願発明の立ち上り角度のもつ技術的意義を正しく理解しなかつたために、引用例について誤つた認定をし、これに基づいた誤つた一致点の認定をしたものであつて、これが審決の結論に影響することも明らかであるから違法として取消しを免れない。
三 以上のとおりであるから、その主張の点に認定判断を誤つた違法があることを理由に審決の取消しを求める原告の本訴請求は理由があるものとして、これを認容することとする。
〔編注1〕本願発明の特許請求の範囲の記載は左のとおりである。
A 河川を横断して可撓性膜布を上流側と下流側で河床部に固定して包被を形成し、包被内部に流体を注入して膨脹起立させ、又包被内部から流体を排出して収縮倒伏させることが出来るようにした堰に於いて、
B 可撓性膜布の下流側の河床部との接点に於いて上流水位が計画倒伏水位に達した時においても膨脹させた膜布に立ち上り角度をもたせたことを特徴とするもので、
C 上下流水位がない場合、上下流の膜と基礎との接点における膜布の立上角度を60°~150°となるようにしたことを特徴とする
D 可撓性膜製起伏堰(別紙1参照)。
(AないしDの符号は便宜上付したもの。)
〔編注2〕本件における図面は左のとおりである。
別紙1
<省略>
<省略>
<省略>
別紙2
<省略>
(他は省略)